みんないなくなった後でも
同じデスクトップPCをもう10年使い続けてて、容量とかいろいろ限界。
ブラウザも同じ火狐を使い続けてるので、ブックマークも溜まりに溜まって10年分。
もはや溜まりすぎて途中から一つのフォルダにぶっこみ続けてるんだけど、いつか来る移行にむけてちょくちょく整理をはじめました。
10年経つと流石にサービス終了・更新停止・アカウント削除してるサイトやブログがたくさんあって
けど更新が止まってても、ログに残ってる痕跡がある限りまだそこに人がいるような気がして、ある日帰ってくるような気がして、ブクマ削除することができずにいる。
なんならアカウントが消えてても、アドレスが残ってる限りインターネッツアーカイバで復元できるんじゃ?アドレスさえあれば、と思ってブクマ削除できない。
10年経てばみんなSNSサービスを乗り換え、移住をし、家族の数が変化したり仕事が変化したりするけど、ほそぼそとでもそれが辿れるとしみじみありがたいなぁと思う。
自分は10年経ってもはてな使ってるし、SoundCloud聞いてるし、Tumblrバリバリだし、Twitterロム専してるし、あんまし使用してるメインのサービス変わってないかも。
変わった部分といえばニコ動見なくなったこと、You Tubeの使い方が変わったこと、iTuneやめてSpotifyとamazonミュージックに移行したこと、Ustreamが無くなってしまったこと、Flickerをほぼ引退したこと、Discordとツイキャスにお近づきになりきれてないこと、Tik Tokには近寄ってないこと。
ただ確認してる中で1年後とか2年後とかにポロッと帰ってくる人もいるので、いつかまた会おうと思いながら動きのないブクマに「更新停止」タグをつけてフォルダに放りこんでおく。
つくづく何かを手放すことのできない性質でして。
いつかリアルタイム更新で、もしくはアーカイブの中でまた会いましょう。
SNS乗り換えるならブレインパルがいい
ブレインパルでテレパシー通信しよ
最近「何か気になった人」のtwitter/BLOG/noteなどなど、開始当時から現在まで残っているログ全部読むっていうことをやっている。
読みすぎて「twitter3年分か…楽だなとか」「10年分ならある程度流し読んでいこう」とか思うようになった。年単位で読むことについてはもう疑問を覚えないように…
気になったっ何かていうのは、考え方面白いなとか、作ってるものが好きだなとか、全力バリバリ風で全然自分と違うなっていう今の姿についてで、「何がいつからこの人をそうたらしめたのか」「何を考えて生きてきたのか」「何かターニングポイントがあったのか」を知りたいっていうのが理由。思考の軌跡を追いたくてやってる。
で、読みまくってるうちにめちゃめちゃ人となりが好きだなって人と、すごい人っぽいんだけど思考追うのめっちゃしんどいっていう人、共感できる人とできない人に分かれるポイントに気づいた。
こういう本がありまして
人には「内向型」と「外向型」の気質があるとして、主に内向型の人にむけて書かれた本。
ざっくりまとめると
[内向型]
・ひとりでいるときに内からエネルギーを得る
・人と関わるとエネルギーを消費するので、一人で充電する必要がある
・大勢の人といると刺激過剰で消耗する
・深く考えることを好む。狭く深く、親密な少数の友達、集中、省エネルギー
[外向型]
・人と関わることで外からエネルギーを得る
・エネルギーを得るために人と交わる必要がある
・ひとりでいると孤独や疲労を感じる
・外部からの刺激を好む。広く浅く、大勢の友達、たくさんの経験、社交好き
こんな感じ。本にはもっと詳しく書いてあるのと、本の趣旨は「外向型が多数の社会で内向型はめちゃめちゃダメっぽく言われてきたけど、そんなことないんだよ」って内容なので根暗とか陰キャとかで悩んでる人は一度読んでみるといいかも。外交的/社交的が誉め言葉になる社会では相対的に内向的がネガティブな印象になるので、外交型⇔内向型じゃなくて発散型⇔蓄積型、体験型⇔思索型の方がしっくりくるな。
で、個々人のSNSログをずっと追った時に、好ましいなと思う人は内向型っぽくて、すごいんだけど近くにいたら自分がめっちゃしんどくなりそうっていう人は外向型っぽいので、つくづく自分は内向型なんだなと思ったのでした。
外向型っぽい人のSNSは
・とにかく考えを思いついた時点で全部書く。それについてコメントもらってやりとりしたがる。ツイート数とリプがめちゃくちゃ多い。
・途中経過も全部アップする。
・進行中のやってることも匂わせつつ報告する(すごい魅力的な案件が3件進行中、さらに今月サービスを〇件リリース予定で、個人のアウトプット時間も欲しい!みたいな)
・結構センシティブな話題にも自分の考えでもって言及する(そしてたまにバズる。そしてクソリプにもちゃんと反応)
・ネット上の面識ない人にも気軽に尋ねる(それどこで買ったの、それ何使ってるの)
・オフ会、飲み会、BBQが好きで主催もする。パーティー開催の事後報告とアフター褒めタイム(〇〇さんとランチ会しました!めちゃくちゃ美人!みたいな)
・アウトプットが誰かの役にたちますように的なスタンス
・ソーシャルバタフライ(明暗の意味で)
内向型っぽい人のSNSは
・自分の中で一通り考えて完結したことを書く。やりとりは知り合いか親しい人くらい。
・結果だけアップする。
・進行中は悔いてる(時間がない…もっとうまい方法が…みたいな)
・センシティブな話題は調べてから、第三者の立場をふまえて言及する。
・知らない人から質問されて回答する側のコストを思いやって、自分から質問するのを遠慮する。
・交流の主より傍観者でいたい、交流の場を設定したり輪をつくったりは自分からはしない。向こうから来れば応える。考えや成果物を褒める。容姿に言及するのは良しとしない。
・アウトプットは自分録で、誰かが気に入ったらどうぞなスタンス
・ソーシャルなくてもやっていける
自分は内向型っぽい人の書く文章が好き。なんだろう、その人だけの世界が強固にある感じや、行間に何かが滲んでいるような雰囲気、底の知れなさに惹きつけられるんだろうか。もっと知りたいと思ってしまう。
外向型っぽい人のふるまいもタイプは違うけどいいなと思う面もあって、思考の過程を全部出すことで感じられる親密感や、所属や顔などの個人情報を出すことで現実の仕事に繋がりやすいことや、アウトプットすることの敷居の低さや、自分を基準にできるゆらがなさ(世の中にもっとできる人がいることで無力感を感じたり凹んだりしない)、こういうのは利点だと思うので取り入れられるなら取り入れたい、無理ない範囲で…
ところで度々取りざたされる音声メディア、いろんなのが出てるけど基本的に外向型向きだと思ってる。とにかく人に会いまくりたくてリアルタイムな会話を好む人向け。特に今clubhouseにハマってるのは自粛で人と会えなくなってエネルギーの足りなくなった外向型(交流パーティーみたいと聞いて沸き立つタイプ)、相変わらずじっくり向き合える文字メディアが居心地いいのは内向型(交流パーティーと聞いて顔を青ざめさせるタイプ)なので結局clubhouseとtwitterのどっちがつぶれるとかじゃなく、単に棲み分けか共生がなされるんじゃないかな。
どのSNSを好ましく感じるかは気質の違いだと思ってるので、今後twitterは時代遅れ!ナウいのは音声!文章は死ぬ!とか言われるようになったらチベスナ化する。
ちなみにめちゃくちゃ好みのものを作りまくってるけどほぼSNSに居ない(ポートフォリオだけある)人もいる。裏アカとかあるのかな?気になる、気になる、何を考えてるのか気になるーーー
だれかに
久しぶりに進撃の巨人のシーズン2EDを見たら目が冴えてしまって眠れない…
追い詰められた人々が、鉄格子の隙間から子供だけでも抱えて外に出そうとするカットが当時からトラウマだったけど本当に心臓にきてしまってつらい(映像自体は素晴らしい)
子供が生まれてから、子供が犠牲になる系の話を摂取すると刺激が強すぎて拒否反応が出るようになってしまった。
子供の頃は映像(ドラマや映画)を見るのが本当につらくて、登場人物に感情移入しすぎて楽しくても辛い目にあっても見ててものすごく疲れてしまったのだった。ある程度大人になってからは、カメラや脚本や演者の事を頭において、これは作り物だからっていう距離がとれていたんだけど。今はもろもろの疲労が積み重なっていてこころの防御力が低くなっていて、また客観と主観の距離をうまくとれないのもあると思うんだけど。
子供、めちゃくちゃに可愛いしはちゃめちゃに手間がかかるので、こんなにエネルギーを費やして生み出して、こんなに全ての世話を手間暇かけて与えて、ものすごいコストを何十年単位で費やした存在が、例えばただの弾除け要因でふっとばされたりしたらなんて非効率!なんて無駄!なんてナンセンス!って思うようになってしまった。
なのでフィクションの中で「腕の一本も惜しくない!」とか言われると「指の一本もなくならないかはちゃめちゃに心配してた身になれ!」と思ってしまうし
「この命惜しくない!」とか言われると「惜しい!何もかもが惜しい!惜しがれ!」と思ってしまうし
子供を身を挺して守る描写(冒頭の進撃のEDみたいな)を見てしまうと、守った後もちゃんと無事に生き延びれたのかわからなくて絶対親はちゃめちゃ不安になりながら死んだよね~~全然安らかに死ねないよね!?地縛霊になってしまうよね!?って思うし
紛争地帯でどんどん兵力が尽きて行って、少年兵が動員されるまできた段階のニュースを見てしまって、理不尽非効率非生産的っていうやりきれない思いが…
そういう物語を摂取して大丈夫な時とダメな時と大丈夫な物とダメな物が今ははっきりしてなくて、不意打ちをくらってしまうとノーガードで大ダメージ。
負ってしまった傷に深夜ラジオが染み入る午前2時半
どこかの街の道路を誰も載せてない観光トロッコが進んでいく
先日なんやかやあって明け方まで寝れなくて、もう空も白んできた夜明け頃、久しぶりに「死ぬの怖いな」と思ってますます寝れなくなったのでした。
布団に入ってゴロゴロしてて、隣には赤子と夫がスヤスヤ寝ていて、夜ふかし仕切って眠気の限界を超えたせいなのか。
「赤ちゃんが寝入りに泣くのは寝るのが怖いから、意識を失うのが怖いから」っていう話をどこかで見て、寝ても死んでも同じ意識がない状態だなー、この隣でゴロゴロスヤスヤしている赤子も今日寝るとき怖かったのかなとか
先日他界した祖父が棺に横たわっている姿は、やはり生きて眠っている状態と全然違って明確に死の状態だったな、中継画面越しのガビガビ画像でも「もう居なくなってしまった」っていう雰囲気がビンビンに伝わってきて、眠っているようだけど全然眠りとは違ったなとか(コロナのせいで危篤にもお通夜にも葬式にも帰れなかった)
自分が初めて死を意識したの、小学校の下校途中で配ってたキリスト教の冊子にめちゃめちゃ地獄の描写があって、死んでも終われないし強制的に今いる場所や人から切り離されてよくわからない世界に突っ込まれるのめちゃめちゃ寂しくて怖くて泣いてしまったあの時だなとか
そんな事を眠気で麻痺してるのに妙に覚めてる頭で考えてたら、今寝たあとにそのまま終わってしまったとして、目の前の家族、画面越しの友達、遠方の家族、一言もかわさずさようならするのがすごい怖くなってしまって、ますます寝れない!今寝て死んだら怖い!やだやだ!死んだらどうする!ってゴロゴロしてたらいつの間にか寝てた。そして無事に起きた。
普段は明日終わってしまってもまぁしょうがないかなって思ってたはずなのに、久しぶりに死の手触りを引き寄せてみたらめちゃめちゃ怖かったという午前4時半の話。もうしばらくしない。
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間取りの関係で背後に人がいる状態で書くブログ、めちゃめちゃ落ち着かない。
自分の思いを面と向かって伝えることがあまりないので、見られてしまったらド直球内面すぎるっていう焦りが生まれる。こういうのは深夜に一人でしずしず書くのが向いてる…
この街にさよならと言ったがあれはウソだ
ダイアリーの方を見返してたら、最後の引っ越しの記事で"いつかまたひょんな事で暮らせたら良いな"って書いてたけど、ひょんな事で帰ってきました。
完全に同じ街ではないんだけど、生活圏的には同じ。
転出手続きをしたのと同じ区役所で転入届を出し、前に作った図書館の貸し出しカードがまだ有効だった。
相変わらず住みよさはある。チェーン店が多いので、ここに馴染んだと実感できるのはもうちょっと経ってからかな。ここにも一生住むつもりはなくて、区切りが来る何年か先までだから、相変わらず仮住まいって感じ。
今まで住んだ中で一番根がついた感じがしたのは練馬区に居た時だったな。
ところでダイアリーからの自動インポートはいつになるんだろ。
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なんだか最近妙に精神がクサクサしている。
あまりにも何かに追い詰められて2週間にわたり精神面的な体調を崩し、夫に土日子供を任せっきりになってしまい、これはいかんという事で時間をとって書き出して整理してみた。
[状況]
子供が生まれた時がしんどすぎて、いろいろ先の事を考えると暗黒面に落ちそうだったので「とりあえず今日一日の事だけ考える」事にした。その後数ヶ月経って体の傷が癒えてきて、かつ生活のルーチンができてきた事により、ふと空き時間ができる時が増えてきた。が、空き時間ができた時に「何もすることがない…」とか「何かやらなきゃいけない気がする…」とか漠然とした不安に襲われて、ぽっかり更地に投げ出されたような気持ちになってしまう。正体不明の不安が理由のない苛つきを生んでいる。
[対策]
完全に空間に独りでいる時間をとる
焦るのは何も目標がないからで、目標がないのは先の事を考える余裕がないからで、自分の事とか将来の事をこうやって整理する時間が必要。夫に子供の世話をしてもらい、その間話しかけないでもらう。
久しぶりにヘッドホンしてPCに向かって文章を書いてるるけどすごくいい感じ。以前に内向的性格についての本に書いてあったけど、人に会わずに家で独りでいる時間が必要なんだなと実感した。
コロナだから外でカフェも行きづらい、在宅勤務だから家で独りになる時間が少ない、夫の性格的にめちゃめちゃこちらをかまってくる、などが合わさってだいぶ細かいストレスが積み重なってた。なるほど。
引っ越して部屋が増えたのも良かった。背後を気にしなくていいって大事。
久しぶりにデザイン系のサイトとかを巡ることができて、前向きな方でやんなきゃなーって気分がアガってきてる。何が解決したわけじゃないんだけど気分がいい。
これから業界とデザイン関連のリサーチをする、勉強する内容と期間を決める、会社の状況を確認する、がんばろう。やっていこう。
視界の半分が雪で半分が晴れ
気を遣われるのって難しい。
産前産後のために実家に長期滞在している。
①外部の人は「お客様でいなさい」とか「上げ膳据え膳してもらいなさい」と言うけれど、
それを実行した時に膳をこしらえるのは、介護と加齢で疲れている母か、新生児と体力テンション280%(コロナ休校のせいで)の小学生の相手をし、さらに私の足になってくれている妹しかおらんのだ。言ってくる人が膳を据えてくれるわけではない。
もし本当にお客様でいるつもりだったら、私は長期滞在せずにとっとと戻ると思う。自分の精神安定のためにも。
家事なんていくらでもやる事あるし、久しぶりに帰ると暮らしてる人の目につかない家の痛みやら汚れやらが自分には目についてしまうので、それを放っておいたほうがストレスになる。
②名字を変えたけど、元の名字を捨てたつもりはなく、名乗りを変えた位に思っているので、もう○○(旧姓)じゃないんだから気にしなくていいんだよ、とか△△(新姓)なんだからいいんだよ、とか言われてもいやそんなことねーし、って感じ。もちろん、上げ膳据え膳的な話と同じで、気を遣ってもらって言われてるのはわかるけど。名字が変わったくらいで宇宙の法則が変わって目の前の状況が変わるわけでもなし。
目の前で皿が割れたら誰かが片付けなきゃいけないし、姓が変わったから自分は片付ける必要ないなんて、んなーワケがない。し、名字を変えた事のない人が言っても説得力無いわな〜と
③心情を慮って回りくどいやりとりをするのが苦手だったはずなのに、自分不在で話が決められるのにすごく反発を覚えるようになってしまって自分にびっくりしてる。
話の結末はどう話してもAになるだろう事はわかってる場合、「Aにしましょう」「はい・いいえ」で済むのが一番早いってわかってるのに、提案されたらいいえと言えない、思うところが無いわけではないけどまぁAが一番良いのはわかるし…とのんでしまう、実質選択肢が無い事がすごく腑に落ちない。
だからこれは効率的とか合理的とかではまったくなく、単に筋を通せやゴルァとか、面子ってもんがあるんじゃいネゴれやゴルァって言ってるだけの、とても感情的な反応なんだけど。という事まで自覚してるんだけど。
これがホルモンバランスってやつなのか?家族が思ったより疲弊してる事へのショックでこうなってるのか?自分が疲れてるせいなのか?何が原因かわからないけど、この先いつか、こんなこと思ってたっけ〜メンタル落ち込んでるわ〜と思えた時のために残しておく。
ヒメオドリコソウの蜜は一度に大量に飲むと青臭くてちょっと気持ち悪い
今年は雪が無いのでもうツクシがワッサワサ生えてる
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里帰り出産のために実家に帰ってきました。
姪っ子甥っ子たちが居るので、朝から夜まで不条理な遊びに付き合ってると一日が終わる。
小学生の姪っ子は一日中不条理劇みたいなことしてる。今日はタピオカを売らないタピオカ屋という、概念を売るお店屋さんごっこ。
赤ちゃんの甥っ子はひたすらハイハイで玩具を追いかけ続けるから、30秒に1回玩具を反対に置いて方向を変えてあげる。まるでライン作業のようだ。
長期で帰ってくるのがほとんどなかったから、久しぶりに長く家に居ると実家の「家として老いた感」が増しててそうか〜という気持ちになる。具体的に言うと物が溢れ出してる。昔は各々の部屋に荷物が仕舞われてたはずだけど、今は廊下や使ってない部屋に荷物がうず高く積まれていて、田舎の整理不可能な家って感じになってきていてちょっと気持ち的につらいところ。家外の物置には物が少ないのが尚更。なんかこう、把握するために手の届くところにすべてを積み始めると結局把握できなくなって地層化の際限がなくなると思うんだけど、その一歩を踏み出してしまったのではと危惧してる。とはいえ自分は数カ月借り暮らしの身なので何にも言えないけど…
あと高いところやちょっとした隙間や角にホコリや蜘蛛の巣(しかも古くてホコリ化してる)がちょいちょいあるのも、メンテナンスの手がまわってない感あって気になる。建物としての家自体はまだ綺麗だから尚更。目線が外れる場所って、長く住んでると意識の外になるから汚れに気が付かなくなっていくんだな…
なので運動がてらちょいちょい掃除してる。他所の田舎のお家に行くと、わ〜なんでこんなに物が雑然と積まれてるんや〜と思うんだけど、実家でその感覚を味わう日が来るとは思わなかった。
それだけ主として住んでる人の(特に親の)思い出と記憶が積まれてるって事で、生きてきた年月の重さって事なんだろうけど。自分の使ってた小学校のリコーダーや、工作で作った物々までとってある。さすがに…もうリコーダーは捨ててよいと思う…
都内賃貸だと引っ越しが必須だから何年かに一度断捨離タイミングがあるけど、いつか定住した時には物に執着しないようにしよう、と思った。
代わりにデジタルに執着できたらいいんだけど。老後にリブログを見返して楽しもうと思ってたTumblrがずっとサービス継続の危機に晒されててハラハラしてるよ…執着先としてはだいぶ儚くてツラい。過疎も進んでるけど私は最後の一人になってもリブログし続けるぞ…