HDDの稼働音で気づく深夜アニメの放送時間

2018の後半全然アニメを見なかった事にあせって、2019春アニメをめっちゃ予約したら夜中にHDDがカリカリ言うようになった。しばらく動かしてなかったから気づかなかった…

さらざんまい良かった。フルバのアニメが見れるまで生きててよかった。噂のキンプリをついに見れる。

ただ、さらざんまい、あまりにも前に住んでた家の近くがロケーションなので平静には見れない。どうしても。

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生活に飽いてる

わからないのは、ルーチン化した生活に飽きたのか、生活がルーチンに戻らないのに飽きたのか、どっちだろう。

 

遠くに楽しみがあるのは良いんだけど、遠くにタスクがあると、普段の生活(=目の前の楽しみ)をやるべきなのか、タスクを消化すべきなのかで迷ってバランスがとれない。

タスクを取ると休んだ気がしないし、タスクは本番当日が来るまで何かしらが残るので、今日は生活をする!と決めてもどこか後ろめたくて、後ろめたく思うことに疲れる…の繰り返しだ

 

<遠くのタスク>

・1ヶ月後の挙式

・3ヶ月以内に消費しないといけない新婚旅行休暇とその予定

・半年くらいで進めないといけない引越し

・1年くらいで進めないといけない子供関連

 

前半はタスクがあるのに全然決められてないやつ、後半はそもそも不確定事項が多くて決めるもなにも…ってやつ

 

これ、できるだけの情報を集めたくて焦ってやきもきするけど、いざ本番が始まったら見るのとやるのとでは全然違いました!ってなるやつ

 

一人だったら最悪テキトーにやってしまえるけど、全部相手がいる事だから決めきれなくてモヤモヤするやつだこれ

 

遠くのリスクやデメリットばかり見えてしまってダメだ。

何か楽しもうとしても、「けどこれは数年後にはできなくなるから」「今だけだから」って思ってしまうと焦るし、やらなかったらやらなかったで、「いつかできなくなるのに、それができるチャンスを1つ潰した」って罪悪感で焦る。

 

切り崩して減っていく預金口座の残高を見ているような気持ちだ。

数年後には、あのときあんなに思い悩んでたけどなんとかなったわ〜杞憂〜ってなるやつ。今までの人生でも何回もあったやつ。けど今はそれが杞憂だってわかんないんだよね。だから杞憂なんだけど。

 

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<迷っている生活>

平民金子さんの展示が神戸であって、あと1週間

http://heimin.hatenablog.jp/entry/2019/04/23/211748

薄暗い部屋で、はてダのブラウザをモニター全画面にしてひたすら金子さんの写真を見続けていたあの日々。フライパンを振る連続写真、ベランダの手すりに置かれた料理の写真、どこかの街角、街中でたまに出くわすナントカ荘を思わせる、少し薄汚れた畳の部屋の写真。文書も気持ちよかった。

https://suumo.jp/town/entry/kobe-heimin/

この記事と、神戸新聞で連載されている記事を読んで、子供との生活をずっと読んで、一方的だけどファンというか、ネットにはこの人が居るって思う人の一人。

どこでブログを見つけたのか覚えてないけど、めちゃくちゃ良い写真じゃん!って思って、日々の生活をこんな風に残せないかと思って、カメラを持ち歩いてたな。

が、ネットではなく現実に展示をしていると言う。行かない理由がないはず。夜行バスに乗ってでも。一人だったら。

 

写真美術館で志賀理江子さんの個展をやってる。私にとっての、道しるべという意味で神様がそこにいるのに、193円の交通費でトークショーに行けたのに、行かない理由がないはず。一人だったら。

 

会いたい人がたくさんいるし、行きたいお店がたくさんある。

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これ、やらないのを「一人だったらなぁ」を言い訳にしてる自覚はあるし、えーいやってしまえ!と振り切る前に一瞬でも「でも2人だし…」ってブレーキがかかるのは確かにあるんだけど、結局は自分の問題。

エライ人は言う、やらない理由よりどうしたらやれるかを考えろと。それは知ってる、言い訳してるだけ。ずるい。やったときの責任を負いたくなくてズルズル時が過ぎてるだけ。

生活に飽いてるというより、2人分の生活と自分の生活の舵取りバランスが取れなくてフラストレーションが溜まる現状に飽いてるんだな。

 

とりあえず夫がかなり定期的に体調を崩して寝込むので、1部屋しかない部屋を真っ暗にしてご飯食べたりやりたいゲームできないのとかに飽きてるんだな。つまり2部屋あれば解決する話。ちゃんちゃん。

 

本は良いぞ

整骨に通って2ヶ月が経ちました。最初は首を寝違えたのか、回らなくなってしまったのでその緩和に行ってみたら、終わる時に次の予定を聞かれるのでつい継続してます。

首は治ったけど、座り仕事で足やら何やらが毎週ダメになるので、せっかく良い整骨院を見つけたので毎週通ってます。

みんな遠慮なくアタタタって叫びながら施術を受けてるのでライブ感あって楽しい。

 

 

ところで最近ネットがしんどくて、なんかいろんな事にみんな怒ってる。怒ってる事は大事な事なのでいいんだけだ、ただただ無茶苦茶突っかかりたいだの捨てアカがそういう話に必ず罵詈雑言を飛ばしてて、この中の人はこんな風に人を罵倒するためのアカウントを作って、わざわざバズった発言に片っ端から話しかけなきゃいけないほど現実で何があって歪んでしまったんだ…ツラ…闇…って想いを馳せてしまうのがしんどい。いっそ全部1つのBOTであれ。

 

現実身の回りだとネットで見かけるほど(当たり前だけど)争いは起こっておらず、それは肉体っていうデバイスの制限があるから、割と抑えられてるんじゃないかと思った。

 

肉体が一つの枷、ストッパーになっている

→文字でああああっとか!!!とかは簡単に出せるけど、現実の肉体で想像通りに体や声帯を動かせる人って少ないんじゃないかと。あとはそもそも対人が苦手で、面と向かって吠えられないから文字で突っかかるマンも少なくないんだろうなとか

 

肉体が説明外の言語として機能している

→相手と自分の見た目、体格の違い、醸し出す雰囲気とか、その場の空気ってやつとか

文字でケンカしてても、会ったらあっさり仲直りとか、文字で不快感を持ってた相手に会ったら、あっさりそんな人じゃなかったってなったり。声の感情やニュアンスの情報量は侮れないから、会議はたまに面と面を合わせるの大事って話もあるし。。

 

文字って情報少ないよなって改めて思うし、ネットは現実と繋がりすぎたけど、現実のいろんな要素を100→1に削ったものを10倍に誇張してのっけてるから、現実そのものでもない。

ので、めんどいしんどいって思ったらオフにするのが最適だっていうフェーズについに来てしまった…ネット大好きマンだったのに…

 

なのでしばらくは肉体的な方面を充実させる事にしました。ヨガとか通ってみてる。健康!

 

もう体のへたった部分は回復しないで損傷として残ってしまうので、100歳まで生きるとして、まだ半分以上はこの体を使っていかなければならないので、メンテ大事、ほんと大事。それか義体化はよ。義体化しても、老人と宇宙みたく全ての人間の脳がネットワークに繋がって、全ての考えた事が共有されるのは勘弁。

タイトル未報告

最近言葉を使うのが下手になってきてる気がする。

タイトル部分に値する、本当に伝えたかった一言が抜けていて、後から考えたらあの話何か意味わからなかったな?とか、褒めたかった筈なのにちゃかしたことしか言ってなくない?って事が増えた気がする。

これはよろしくない傾向です。

 

原因として考えられるのは

・多少歳をとって余裕が出てきた事

・生活の基盤ができて余裕が出てきた事

・硬直した人間関係で余裕が出てきた事

余裕=甘えが出てきた事だと思います。

かつて持っていた、一つの失敗が世界の終わりだったような感覚を失ってしまったように思います。

刺激が足りないという事か?経験を積んだという事か?

かつて欲しかった心の余裕が、不遜とか不躾に繋がってしまうとは予想外でした。

余裕があれば人に優しくできると思っていたけれど、余裕を甘えに換算してしまうと、余計に無作法になってしまうとは。

 

人に優しくいるためには、ぞんざいな存在でいた方がいいのかも?

けどもう手遅れなわけで

 

これからどんどん手厚く扱われてしまう(年齢的に)中で、かつての自分を見失わない努力を、新しい努力が必要だと実感する最近です。